徒然随想

-ストレスと酒−
  なにやらぶつくさと独り言を言いながら、この家の男あるじは朝から歩き回っている。よく聞き取れないが、こんなことをつぶやいているようだ。
「怒りの中枢、快の中枢、不快の中枢が脳の視床下部にあることは確かめられている・・・」
吾輩には、言ってることがちっとも分からない。そこで、
「中枢とはなんですか、視床下部とはなんですか」ときいてみる。男あるじは、うるさいやつだなといった目つきで吾輩をみてから、
「中枢とは、その名の通り、中心となる重要なところと言う意味だ。つまり、怒りというしくみの中心となる重要な箇所ということだな」
吾輩は、そういうことかと頭を縦に振る。男あるじは続けて、
「視床下部というのは、脳のなかのある箇所を指していうんだよ。脳の中の中心部にあり、生命を維持するための基本となる働きが集まっている。つまり、心臓、肺、肝臓、胃や腸など内臓がうまく働くように調整しているんだよ。心臓の鼓動が早くなるのも、呼吸回数が増えるのも、血圧が高くなるのも、おしっこやうんちに行きたくなるのも、みんなここの働きによるんだな」
吾輩は、あっけにとられて口を開け、男あるじの顔をみつめて、
「ふーん、おしっこがしたくなったり、うんちがしたくなるのは、吾輩の心がそうしたくなるからだとばかり思っていた。でも、そうではないらしい。吾輩の脳の中の、しかも視床下部とか言うところが命じるから、おしっこやうんちがしたくなるらしい。吾輩には、視床下部なんて部分を感じたことはないのに、わが輩を差し置いて吾輩におしっこやうんちの指示を出すなんて、不埒なところだな」と思案した。
 男あるじは、吾輩のそんな思案なぞ、歯牙にもかけずに、
「いいかな、視床下部は人間にも、ほ乳類であるお前にも備わっていて、命がうまくながらえるように常に働いている。ここが生きて活動している限り、命を保つことができる。ここが活動を停止すると、命も終わるのだぞ」
 吾輩は、びっくり仰天した。
「そうか、さっきは視床下部の悪口を言ったけれども大丈夫だったかな。ここの機嫌を損じると命に関わるのか、知らなかったな。それにしても、視床下部は、不平ひとつこぼさず、黙々と働いてくれるんだな。吾輩の脳の中にあるやつとはいえ、えらいやつじゃな」
 吾輩のこんな思案が漏れたのか、男あるじは続けて
「いやいや、視床下部は忍耐強い働きものとはいえ、時にはストライキを起こしたり、かんしゃくを起こしたりする。こうなるとやっかいだぞ。とたんに体調は悪くなり、胃潰瘍になったり、下痢を起こしたりする」と説く。そこですぐさま、
「視床下部がストライキやかんしゃくを起こす原因は何ですか」と尋ねてみる。
「それは、ストレスだ」と男あるじは答える。
 吾輩は、これで合点がいった。大抵、週末になると体調を崩す。週末ともなると、月曜日から金曜日までの間に留守番を強いられるので、そのストレスが貯まってしまうのだ。何せ、この家は一家総出で働きに出ないと暮らしていけないらしい。夫婦はもちろん、娘も努めに出かけていく。彼らも週末はストレスが貯まるようで、土曜日、日曜日ともなると、テニスやゴルフに余念がないようだ。吾輩も、土、日曜日は散歩の時間も増えるし、抱っこされたり、頭を撫でられたりするので悪い気はしない。
 「視床下部はストレスに弱いのか、これからは、視床下部のご機嫌を取らないといけないな」と吾輩は思案し、はたと思い至った。
「そうか、人間どもは、視床下部をだますために酒なるものを発明したんだな、なんて悪賢い生き物なのだ、人間というやつは」

「人の世にたのしみ多し然れども酒なしにしてなにのたのしみ(牧水)」