夕方、鈴掛の樹が植えられた街路を散歩すると、それらの樹が涼風を受けて軽やかな音を出すのを聞くのは心地よいものだ。それは葉が大きく、楓のような形をしている。それが風に吹かれてサリサリサラサラといった音色を出すのだ。わが輩が庵を置く住宅地には、銀杏、南京ハゼも植えられているが、鈴掛の樹が白緑の幹の色といい、葉の茂りといい、散歩していて気持ちの良い樹木だ。
  晩夏には、この幹に好んでツクツクホウシがやってきて、夏の終わりを演じる。これも、夏から秋への移りを実感させて風情がある。こんなことを思いながら散歩していると、わが輩の伴走者である男あるじが、無粋にも、ツクツクホウシを手で捕まえるべく、抜き足差し足忍び足よろしく、近づいた。わが輩は、無心に鳴いている蝉に警告すべく吠えようとしたとたんに、蝉も危険をすばやく察知し、小便を男あるじの手に引っかけながら逃げていった。男あるじは、「取り逃がしたか残念。せっかく、孫に見せてやろうとおもったのだが」とつぶやいた。そして、
「この鈴掛には蝉がよく来るな。きっと、樹液がおいしいのだろうな。ツクツクホウシばかりでなくアブラゼミもとまっていることが多い。鈴掛は学名をプラタナスというので、その名でも知られている。鈴掛の樹は歌にもよまれている。たとえば、『友と語らん 鈴懸の径 通いなれたる まなびやの街;やさしの小鈴 葉かげに鳴れば 夢はかえるよ 鈴懸の径』という歌がだいぶ前になるが流行った。これは、佐伯孝夫作詞、灰田有紀彦作曲で、灰田勝彦が歌ってヒットした。といっても太平洋戦争中のことだ。これはポップス調のしらべにのって、しみじみと、どちらかといえば哀愁のある青春の歌になっている。『友と語らん、鈴懸の径』なんて小憎らしいくらいに良いフレーズだとは思わないか」と話し出した。
  わが輩には友はいない。あこがれの彼女はいるが、これも片思いだ。人間どもはしきりに友を求めるようだ。わが輩たちイヌ族にはわかりにくい存在だ。この歌で言う友は男の友人だろう。きっと、大学生同士のつきあいなのだろうか。友と語らんとは何をだろうか。人生か、はたまた愛か、あるいは真善美だろうか。わが輩は、そもそも友とは何でしょうかと眼で尋ねた。男あるじは、
「友人という人間関係だが、これはただの知り合いとは違う。互いの間に友情というものが存在するような関係を言う。友情とは、相手を好ましい者と感じ、相手の価値観を尊重し、相手を無条件に信頼することをいう。そうそう、こんな歌もあるぞ。『妻をめとらば 才たけて みめ美わしく 情けある; 友を選ばば 書を読みて 六分の侠気 四分の熱』。これはあの有名な与謝野鉄幹の作詞になるものだ。つまりだな、友人というのは遊び友達ではなく、深いところでつながった存在、人生観や価値観を互いに共感しあえる存在ということになるな」と応えた。
  わが輩は、これにはちんぷんかんぷんで理解できなかった。きっと、友という存在を経験していないからだろう。人間族は友がなければ孤独感が増すようだ。わが輩イヌ族は、それぞれ独立心が高く、孤高の存在と自負しているので、孤独には耐えられる。人間族は、なにがしかの絆をもっていないと生きてはいけない存在らしい。いやはや、人間という種族は、生きるのに必要なものが、けっこう、いる難しい存在のようだ。それに較べて、わが輩は、日々是好日をモットーとして単純明快な犬生を送っていると自負している。

「秋の風 鈴掛の葉で 語りかけ」

徒然随想

-鈴掛の樹