日中はまだ暑いが、しかし朝夕は涼しい風が吹くようになった。今日23日は、二四節気のひとつの処暑だそうだ。つまり、暑さも治まる頃という意味らしい。わが庵である縁の下は、西風がよく通るので、蚊の襲来を防げば午睡をむさぼるのには快適だ。男あるじも、この風に誘われたのか、夕方、庭にお出ましになった。そして、
「クマゼミが鳴いているな。今夏はとくにクマゼミが公園を席巻したようだな」とつぶやいた。わが輩は、あれはアブラゼミではないのですかと眼で問うと、
「よく聞いてみなさい。ジィジィジィとは鳴いていないだろう。シャシャシャとか、ワシャワシャとか聞こえている。あれは、クマゼミの鳴き方だ。クマゼミは羽は透明でミンミンゼミに似ているが、横幅が大きく力も強い。木の上の方にいるので、鳴き声は聞こえるが、姿はなかなかみつからない。クマゼミに木の梢を占有されてしまうのでアブラゼミは下の方に留まっている。心なしか目立たないように縮こまっているようだ。」と答えた。 わが輩は、蝉にも縄張りがあるのかと、意外な感じを持った。羽があり自由に空を飛翔できるのに、生息圏を狭めてしまうとは、これも種の保存のための掟なのだろう。他の種より繁殖するためには、生存に有利な空間を確保する必要がある。蝉もテリトリーを分けることで共存共栄を図るのだろうな、と愚考していると、男あるじが、
「その通り。物理的空間を分けることで生息圏を確保する方法と、羽化する時期を遅らせることで確保する方法がある。ようやく鳴き始めたツクツクボウシなどは、他の種が退場した頃をみはからって遅れて出現することで、容易にテリトリーを確保できる。そういえば、この辺ではミンミンゼミが少なくなってしまったようだ。きっと、クマゼミが増えたので追い払われたのか、あるいはもっと涼しい地域に引っ越したのか。ミンミンゼミは、アブラゼミの後に出てくるセミなので、残暑も厳しいこの暑い地域では生息できなくなったのかも知れない。もっとも、鳴き声がまったく異なるミンミンゼミとクマゼミの鳴き声も、そのベースとなる音は類似していて、ゆっくりと再生すればミンミンゼミの鳴き声に、早く再生すればクマゼミの鳴き声になるというから不思議だな」と話すでもなくつぶやくでもなく声を出した。そして続けて、
「清水基吉の俳句に、『蝉時雨 きのふのごとく 戦後過ぐ』、がある。蝉の声には、郷里や過去を偲ばせる力があるようだ。蝉が鳴き始めると夏が来たと感じ、ツクツクホウシの鳴き音で晩夏を感じる。もっとも、蝉に季節を感じるのは日本独特の感性のようだ。緯度の高いヨーロッパでは、南仏やイタリア以外には蝉はいないそうだし、アメリカでも17年あるいは13年ごとに大発生する17年ゼミあるいは13年ゼミがいるだけらしい。日本人は、アブラゼミ、ミンミンゼミ、ツクツクボウシ、ヒグラシの鳴き音を聞き分け、しかもそれに対して季節の情緒を感じる。枕草子にも、『蟲は鈴蟲。松蟲。促織(はたおり) 蟋蟀(きりぎりす)』とある。でも、蝉や虫に対してこのような情緒を伴った聞き分けをするのは日本人だけで、とくに欧米の人には騒音としか聞こえないようだぞ」と語った。
  わが輩は、そういうものかと唖然とした。これから秋の虫が鳴き始める。キリギリス、コオロギ、鈴虫、などなど。わが輩にも、リーンリーンと鳴く鈴虫の澄んだ音は、耳に心地よいと良いと感じるのにな。これが、文化の違いというものかもしれない。欧米人が心地よいと感じるものでも、われわれにはうるさいだけのものもきっとあるに違いない。

「蝉時雨 心の琴線 震わせり」 敬鬼

徒然随想

-処暑と蝉しぐれ-