早朝から男あるじが庭に出てきて深呼吸をはじめた。そして、
「良い季節になったな。暑くもなく寒くもなく、風も涼やかだし、空気も乾いている。一年の中でもっとも麗しい時候といってよいな。この時期のことを24節句で小満というのだぞ。その言わんとするところは、万物の成長する気が天地に満ち始める頃ということだ。そういえば、公園の桜や欅、庭のノムラ紅葉やハナミズキの葉もいっそう緑を濃くしてきたようだ。見ろ、遠くの山々も白っぽさが消えて濃緑に輝いている。もうじき、梅の実もなる。田植えも始まるな」とつぶやきながらまぶしいくらいの明るい空を仰いだ。 吾輩は、そういえば2週間くらい前は立夏だとか話していたことを思い出した。月日は、その歩みを一歩一歩進めている。もっとも歳をとり、足腰の衰えを感じると、月日が経つのは恐ろしくもある。それだけ、この世にある時間が少なくなっていくことを意味するからだ。こんな感慨をもって空を見上げていたら、勘の鋭い男あるじも、
「ふむふむ、5月のこんな好天に思いをいたして、おまえも世の無常を感じたようだな。まったく同感だな。おまえよりはまだこの世に長くいられるにせよ、思いをいたせば切迫しているといえないこともないな。今日明日ではないにせよだ。小満と言われる万物の生気が満ちる候には一段と生命の無常も感じるからだな」となにやらしみじみと話した。
 吾輩は足腰が衰えてきたものの、食欲はあるし、かわい子ちゃんの香しき匂いを嗅ぐこともできるので、命の終わりをそんなには深刻には思っていない。きっと、男あるじも、時には感傷的になることはあっても、吾輩と同じで楽観的なはずだ。年寄りにもそれなりに命の輝く小満はやってくると吾輩は愚考する。男あるじは、吾輩の顔をしげしげと見やりながら、
「うーん、なかなかの洞察だな。生きとし生けるものに生気が満ちるということは、年寄りにもそれなりに生気が湧いて出でるはずだな。人生の黄昏としか年寄りは受け止められないが、実際には毎年毎年それなりの小満があるな。だから、この季節には人一倍木々や虫、花々の躍動に心打たれるのだろう。『大風に湧き立っている新樹かな』。これは高浜虚子の俳句だ。新樹とは新緑の樹木だから、春の大風にみずみずしい新緑を付けた枝がまるで水が沸騰しているようにざわざわと音を出し揺れているという句趣になろう。生命の躍動を素直に表現している。こんな句もあるぞ。『夜の新樹詩の行間をゆくごとし』。これは鷹羽狩行のものだ。この人は山口誓子に師事し、仕事の傍ら俳句を詠んだ。初夏の新緑を付けた街路樹の植えられた街路をぶらぶらと散策すると、それはまるで生命の躍動を詠んだ詩を思い出すような趣があるというのだ。こんなイメージが生まれるのも、みずみずしい葉を付けた木々のなせるわざといえようか。」と男あるじは話を終えた。
 吾輩は男あるじの話を聞きながら、男あるじはこの世にあることを心から慈しんでいるのだなと感じた。吾輩も余生が旦夕に迫りつつあるが、しかし生来の脳天気であるせいか、季節の移り変わりをしみじみと慈しむことはない。それよりは、今日一日、好日であることに努めようと思うのみだ。男あるじとの違いは、きっと、このような感慨を文字にする習性がないからだろう。もし、ワンワン言葉で端的に季節の移ろいを表現できれば、ワンワン詩でもうたうのだが。

「さつきの樹満花吹き出し生気溌つ」 敬鬼

- 小満

徒然随想