秋分の日も間近になってきた。今年は台風が次々と日本列島を襲うので例年のような残暑がなく快適だ。散歩をすると、いつのまにかツクツクホウシも鳴かなくなり、コオロギの声が際立つ。路傍にはところどころに曼珠沙華が赤や白の糸のような花を咲かせている。そういえば桜の葉もところどころ色づきだした。老いの身には残暑がないのはありがたいことだと感じていたら、そこへ男あるじが出てきて、
「そろそろお彼岸、秋分だな。これを境に昼と夜の時間の長さが逆転し、秋の夜長にすすんでいく。早く夜がくるということは、それだけ気ぜわしいし、寂しく感じるものだな」とつぶやいた。
 男あるじもやはり歳をとったせいか。秋になるのをわびしく感じているようだ。自分の人生の黄昏をおもうのだろうか。かくいう吾輩も命は旦夕に迫りつつあるのを実感している。よく、この夏を超したものだ。男あるじなんかはお盆までもつまいなんていっていたが、吾輩は衰えたとはいえ命は続いている。ここまで生きてくると、吾輩は自らを愛しく感じるから変なものだ。そこへ娘あるじがやってきて、
「クウちゃん、心配しなくて良いよ。最後まで面倒みるから安心して生きながらえてよ」とのたまい、ラケットをかかえていそいそと出て行った。何が最後まで面倒見るからねだ。土曜、日曜と家にいたことがないのにとても当てにできやしない。まあ、この家で頼りにできるのは女あるじだけだな。いれかわりに女あるじがやってきて、
「これから涼しくなるので元気が回復してくるから、頑張ってね。クウちゃんは食欲も戻ってきているのでこの冬も越せるかもしれないわね。散歩もゆっくりゆっくりすれば身体の負担にならずにすむから、一緒に歩こうね」と話しかけた。吾輩はおもわずうるるとなり、いそいで前足で眼をこすった。命には限りがある。王侯貴族といえどもこれには抗しがたい。始皇帝は不老長寿の薬を探させたと言うが、効なく49歳で客死したと伝えられる。吾輩も寿命の尽きるまでは1日1日を平穏に過ごしたいと念じている。
 男あるじは、
「生きとし生けるものはその生命がつきるまで生きねばならない。これは生まれ落ちたときからの宿命だ。だから秋風が吹くと誰しも自己の命の有限を思って感傷的となる。『萩の風 何か急かるる 何ならむ』これは水原秋櫻子の詠んだ句だ。萩を揺らす風をみると、心せわしくなる。どうしてだろうか、自分にもその正体ははっきりとしない。なにかやり残しているのではないか。もっとやりたいことがあったのではないか。秋風が吹いてきて今年もわずかしか残されていないが、このまま漫然と過ごしていてよいのだろうか。まあ、こんな心境を詠んだ句だろうな。」としゃべり出した。
 吾輩は、これはわがことではなく、男あるじの心境ではないか、吾輩よりは残された時間はあるにしてもそれはわずかな差でしかない。男あるじの孫の人生はこれから80有余年もあるのに対して男あるじの有効な時間はもうあまりないのだろう。そんな心境が男あるじをして心急かされる思いをつのらせるようだ。
 男あるじは、こんなことを思っている吾輩をしげしげとみつめて、残された時間がすくないものというつながりでの同志と感じたらしいが、てれくさいのかあるいは吾輩のようなものと一緒くたにされてたまらないと思ったのか、そそくさと引き上げていった。

「風吹いて何かを伝う彼岸花」 敬鬼

- 秋分

徒然随想