吾が庵から見える公園の桜もほぼ満開となった。樹に花が咲くと公園の景色がまったく違って見える。花が咲く前はごつごつした褐色の幹や枝でどちらかといえば枯れたかんじだったものが、花が咲くとまるでそれらに錦の衣を着せたようであでやかだ。吾輩は花の色は見えないが、でも張った枝全体に白い衣が掛かったように見え飽かず眺めていられる。
 そこへ、男あるじと洗濯物を抱えた女あるじがお出ましになった。女あるじは、
「クウちゃん、春が来たわね。歳をとると寒い冬はつらいけれども、それだけにいっそう春は良いものだわ。クウちゃんも、これが最後の春かもしれないからじっくりと春の味を味わうのよ」と言わんでもいいことをつぶやいたので、吾輩はおもいっきり吠えてやった。これを聞いて男あるじは、「いくら犬が相手でも、それをいっちゃおしまいだ。客観的にみるとそういうことなんだが、しかし惻隠の情というものを犬にも示さなければな。つまりだな、相手を憐れむというのではなく、相手の心、ここでは犬が相手だが、そして相手の立場に立って感じて振る舞うことが大事になるな。もっともわれわれも老齢に域に達しているので、この桜が人生で最後の桜になるかもしれないわけだがね」と殊勝にも吾輩を思いやったので、吾輩は思わず腰が抜けてしまった。
 今朝の男あるじはいつもの傲慢さはなくいたって神妙だ。これも桜花のなせるわざだろうか。女あるじも、自分の言がストレート過ぎたと感じたらしく、
「クウちゃん、ごめんね。早く死んでほしいと願っているわけではないのよ。でも最近のクウちゃんをみていると、これは長くはないなと本当に心配しているからなのよ」とつぶやき、吾輩をいたわるどころか、傷口をえぐるようなことをさらっと言ったので、吠えることも忘れて口をあんぐりとあけたままよだれを垂らした。男あるじもフォローするべき言葉も見つからずに話題を変えるべく、
「桜を詠んだ名句も多いが、たとえば、正岡子規は、『観音の大悲の桜咲きにけり』と詠んでいる。観音菩薩をおまつりしている寺の境内の桜が満開になっているが、これを拝見すると観音菩薩のおおいなる慈悲、大慈大悲を示していて大いに感じ入る、といった意味だな。観音の妙智の力はよく世間の苦を救うとされる。子規は満開の桜に観音の妙智の力を感じてこの句を詠んだものだろう」と話し始めた。
 女あるじも、ほっとした様子で、
「桜を詠んだ俳句には良いものがあるわね。もっとも、直ぐには俳句が浮かんでこないけれども、たしか『さまざまなことを思い出す桜かな』というのがあったわね」
 男あるじは、
「それは芭蕉の句だな。毎年桜は咲くが、同じ桜でもそれを見る人の思いには年々歳々違うということを詠んでいる。年々歳々花愛似たり、歳々年々人同じからず、ということだね。こんな句もあるぞ。『死に支度致せ致せと桜かな』。これは信濃の俳人小林一茶の句だ。歳をとると身につまされるね」と話し終えた。
 吾輩は、満開の桜を見ても感傷的というかセンチメンタルにはならないが、でも豪華絢爛な桜と死とは、生と死、豪奢と枯渇など相反するイメージを連想させるので対にするものとして相性の良いものなのだろう。

「空霞犬もまどろむ桜かな」敬鬼

- 絶えて桜のなかりせ

徒然随想