ようやく暖かくなった春先、朝の散歩と朝飯がおわって、毛繕いをしながらくつろいでいるわが輩のところに、男あるじはやってくるなり、
「チランを知っているか」と尋ねたので、わが輩は、
「チランなんかシラン」と即答した。これには、男あるじも絶句したようだった。しかし、よく聞いてみると、これは知覧と書き、太平洋戦争末期の特攻隊基地が置かれた場所だった。男あるじは、
「知覧は、現在、南九州市に合併された。ここは、薩摩半島の先の方、内陸部で指宿市と枕崎市の中間の山間部に位置する。江戸時代、この地は薩摩藩の外藩が置かれた城下町だった。いまでも、当時の武家屋敷が保存され、観光客に開放されている。白壁の塀が連なり、どっしりとした瓦屋根の母屋とそれを取り巻く手入れされた庭の屋敷町といった風情である。こんな落ち着いて生活できる場所に特攻基地がつくられ、この基地だけでも1036人もの19歳から25歳くらいまでの前途洋々たる資質を持った青年が死地に赴いたなんて信じられないことだぞ」としんみりと語り出した。
  いつものおふざけの混じった語り口とは違ってのまじめなので、わが輩も茶化すのが憚られた。それでも、わが輩には、特攻という作戦が理解できなかったので、それはなんでしょうかと眼で尋ねてみた。
「特攻とは、特別攻撃の意味で、今様の言葉でいうならば、自爆攻撃、英語では自殺攻撃ということだ。つまり、一死をもって敵に体当たりし、損害を与える。うまくいけば、戦艦を沈めることもできた。もともと海軍がやり出し、神風攻撃と命名していたので、アメリカ軍もカミカゼといって恐れたという。もちろん、生還を考えない攻撃なので死を覚悟し、片道の燃料と爆弾を積載して出撃した」と答えた。
  わが輩は、戦時とはいえ日本もこんな非道な作戦をとっていたのかと唖然とした。しかし、国が滅ぶかもしれないといった切羽詰まった状況では、平時では考えられない一種の狂気が支配し、一死をもって国のために尽くすことが賛美されたのもわからないではない。
「知覧は陸軍の特攻基地だった。特攻が激しくなるのはアメリカ軍が沖縄攻撃を始めた19454月からであったそうだ。旧式の戦闘機、おもには隼に搭乗し、数機で編隊を組んで沖縄にむかって出撃した。この基地の南には富士山に似た優美な開聞岳がある。基地を飛び立つと翼を3回振って訣別の合図を送り、開聞岳を目指したそうだ」  わが輩は、黙って聞いた。男あるじは、続けて、
「知覧にある特攻平和記念会館には、出撃して戦死した1,036柱の隊員の遺影が出撃月日順に掲示され、その遺影の下には家族・知人に残した遺書・手紙・辞世・絶筆等が展示されていた。死地に出撃する前夜に書かれたものもあったが、死を前にして筆が乱れることもなく、簡にして要を得た文面で淡々と家族に別れを告げたものばかりであった。父、母、兄弟姉妹、妻、恋人のために、母国の苦境を救い、そして戦争に勝利し平和がもどることを祈る心情が吐露されていた。いずれも、好青年でなかには20歳前の少年のような顔立ちの人も含まれていた。特攻と言うからには、まなじりを決し、血書をしたため、悲壮な思いで出撃したのだろうと想像していたが、そのような遺書は見あたらず、心奥の情は隠して潔く身を処したと思わせるものばかりであった。こんなに若くして諦観できたと言うことは、戦時とはいえ驚きに値することだ」と結んだ。
  わが輩は、今回の男あるじの旅行話には、ただただ黙して聞き入るばかりだった。このような青年たちの死生観はどのようなものだったのだろうか。死を前にして見苦しく処さないこと、家族のために一身を投げうつこと、身近な人が死ぬことから後れをとらないこと、などなどからだろうか。わが輩にはとうてい到達することのできない心境のようだ。

「開聞岳 散りし桜を 思いしか」敬鬼

徒然随想

-知覧-