徒然随想

- うらを見せおもてを見せて

  「紅葉が美しい」と男あるじが、柄にもなくカメラを片手に庭に出てきた。わが輩には、色というものが知覚できないので、葉っぱが美しいと言われてもちんぷんかんぷんだ。男あるじに言わせると、緑一色だった木々のはっぱが、気温の低下と共に赤や黄色に色づくのだそうだ。こんなふうに言われても、わが輩にはもともと赤も黄色もないので、幾分、葉っぱの明るさが暗くなったかなと感じられるだけである。なんでも山一面が赤や黄色に色づき、それは見事なものだそうだ。そういわれると、わが輩もそんな紅葉の景色を見てみたいものだが、生まれたときから色覚がないので諦めるしかない。そういう人間だって、すべての波長帯を見られるわけではない。赤から紫までで、それ以外は赤外線、紫外線となり見えないそうだ。でもミツバチは紫外線がみえるそうだから、これも不思議な天の配剤といってよい。「まずだな、葉が緑色に見えるのはどうしてか知っているか。それはクロロフィルが含まれるからである。といっても難しいことではない。平たく言えば葉緑素のことだ。これが緑の色素をもつので、緑色に見える。光合成という化学反応する大もとの物質だ。光合成は光エネルギーを使って水と空気中の二酸化炭素から炭水化物を合成し、水を分解する過程で生じた酸素を大気中に供給している」と男あるじは理科の先生みたいに講釈しだした。そういえば、わが輩も大気中の酸素は樹木や植物の光合成の副産物として放出されると聞いたことがある。植物は動けないのに大したものだ。それに較べるとわが輩たち動物は酸素を消費し二酸化炭素を排出するだけの役立たない存在だな。もっとも植物も二酸化炭素がないと光合成できないので、お互いさま、共生関係にあるわけだ。
「そういうことだな、植物も動物も互いの存在を認め、共に生き残っていかねばならない。木々や植物をむやみやたらと痛めつけたり切り倒したりしてはいけないということだ。ところでだ、どうして葉っぱが緑色から赤や黄色に色づくかだが、それは日照時間が短くなり気温が下がると、枝からの水分が遮断されてクロロフィルが分解され、葉に蓄積されたブドウ糖や蔗糖などの糖類やアミノ酸類から新たな色素が作られるからだな。赤色は色素アントシアンに、黄色は色素カロテノイドに、そして褐色はタンニンよる。タンニンはお茶にも多く含まれる物質だ」
  わが輩は、なるほど、葉緑素が分解されて無くなり、その代わりに生まれた色素によって変色するらしいことは理解できた。あの薄っぺらな葉っぱが化学工場のような働きをしているのには、正直なところ、びっくりした。
「葉っぱはは赤や黄色に紅葉した後、落葉するので、生の最後の輝きをみせているようにも思えるな。落葉せずに春が来て、そのまま緑色に変わったらなにか変だろう。やっぱり、落葉して冬枯れし、春に新たな葉が芽生える方が断然趣があるだろう。こんな俳句がある。『うらを見せおもてを見せて散るもみじ』。これは良寛の作だと伝えられている。彼の事実上の妻だった貞心尼の記録に、死期の近くなった良寛がつぶやいた句であるという記述あるのだそうだ。散るもみじにおのれをみたんだな。それにしても『裏も見せ表も見せ』とは何を意味しているのかな。おのれの弱いところを隠さずに、また強いところも明らかにしながらこの世を去る心境をいうのだろうか。」と男あるじは、庭の赤く紅葉した野村もみじを見上げて、しんみりとした調子で結んだ。
  わが輩は、もとより弱いところもつよいところもあまざず見せている、というか何が弱くて何がつよいのか不明だから、おのれの欲するままに行動しているだけなのだ。その結果、裏も見せ表も見せることになるわけだ。まあ、お気楽な犬生と自画自賛している。

「紅葉や 芽ばえを後に 舞い散りぬ」 敬鬼