夕方、まだ昼間の暑さが残っていてけだるく、散歩に出向くのもおっくうだと感じているところへ男あるじが、時間通りに出てきた。このあるじは、まるで時計のように正確に日課をこなす。性格はちゃらんぽらんなので、せめて行動を規則正しくすることで、毎日の規律をとっているのだろうか。そして、最近凝っている日本の古典を暗唱し始めた。
「つれづれなるままに、日ぐらしすずりにむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ」
  これならわが輩のもわかる。かの有名な徒然草の序段だ。男あるじは、この短文の暗唱にも手こずっていたが、ようやく、したり顔に解説しだした。
「徒然とは、もともと連()れ連()れで、今の言葉ではつくづくに当たる。これがしんみりと寂しい、することがなくて退屈といった意味に転化したようだ。この序段の大意は、することがなく寂しいので、それをまぎらわすために、一日中、とりとめもない事を思いつくままに書いてみた。そしたら、自分にも意外なことに、書くことがおもしろく、まるでなにかにとりつかれたように興に乗ってしまうことよ、という意味だな。まあ、現代では、さしづめ次のようになるか。定年退職して何もしないのは寂しいことでもあるので、パソコンに向かって過ぎし日のことやいま起きていることを思いつくまま文に綴ってみると意外に面白く、やめられなくなったといった風になる」
  わが輩は、男あるじが我が身を兼好法師と比肩したのにはあきれてしまったが、しかし心情は似たのものがあるのだろうと推しはかった。男あるじはさらに
「識者によれば、これは兼好法師48歳のとき(1331年)の作という。これが書かれた時代は、あと数年で鎌倉幕府が滅亡(1333年)するという動乱期だ。あの有名な後醍醐天皇が倒幕に執念を燃やしていた。後醍醐天皇は、1331年(元弘1)、倒幕計画を立てたが発覚し、隠岐島へ流された。しかし、幕府体制に不満を持つ楠木正成、赤松則村などが各地で反幕府の兵を挙げ、足利尊氏が六波羅探題を、新田義貞が鎌倉を陥落させて、鎌倉幕府と北条氏は滅びた。こんな時代に綴られたのが徒然草というわけだ」
  わが輩は、そんな時代背景のもとで叙述されたということは知らなかったので、男あるじの話の続きをそれとなく眼で促した。男あるじは、調子に乗って、
「兼好法師という人は、姓を吉田といい、神道の家柄で、後醍醐天皇の父の後宇田上皇に使えたようだな。そして後宇田上皇が亡くなったことを契機に出家したらしい。そして仁和寺近辺に居住したと言われている」と語った。  なるほど、徒然草も隠棲生活から生まれたものなのだな、鴨長明の方丈記の成り立ちとよく似ているようだ。現代にあてはめると、中堅官僚が定年で退職し、天下りもままならないので退屈紛れに、世の出来事をおもいつくまま批判的に書き付けてみると、教養があり、世事に長けているのでそれなりに面白いものが書けた、といったところだろうか。
「徒然草では、兼好法師の政事、芸事、趣味、自然、そして人生に対する見方や考え方が打ち出されている。王朝文化、和歌、古典への憧憬、仏教観による無常が、書き手の心情のベースにあるようだ。第七段にも、『世は定めなきこそいみじけれ』と書き、さらに『命あるものを見るに、人ばかり久しきはなし。かげろうのゆうべをまち、夏の蝉の春秋をしらぬもあるぞかし』としるした」と、夕方の散歩前の話を男あるじはまとめた。
  われらイヌの寿命はせいぜい15年、あの偉ぶっている人間もせいぜい80から90年、過ぎてみれば一夜の夢、一場の夢なのだろう。兼好亡き後、徒然草が残った。ところで、このような私的なエッセイが、書店も新聞も、ましてやネットも無い時代にどうして世に知られるようになったのだろうか。

「朝顔の 陽に輝いて 露消える」 敬鬼

徒然随想

-連れ連れ(徒然)