今朝は冷え込んだ。吾輩は早朝、珍しくもおしっこがしたくなり、一声吠えてそれを娘あるじに知らせ、外に出て、ながながと放尿した。出すものを出した後の爽快感は格別だ。冷え込んだだけあり空には一点の雲もなく蒼さが冴え渡っている。歳をとるとおしっこが近くなるので困るが、それでも粗相をしたことはない。女あるじも娘あるじもこの点は吾輩を高く評価している。吾輩がイヌもらい所でもらわれ、車で連れてこられるときも車を降りた途端にジャージャーと放尿したらしい。吾輩はこのことはとんと覚えていないのだが、いまでも車の中での放尿を我慢したことを女あるじたちは褒めちぎる。足腰が立つ間は粗相をしないで過ごしていきたいものだと吾輩も念じているが、さあて、どうなりますか。こんなことを朝寝をしながらとつおいつ思うでもなく思っていたら、そこへ男あるじがお出ましになった。手にはなにやら文庫本のようなものをもっている。「これは『伊勢物語』という日本の古典だ。在原業平が著したと言われている。平安初期の頃だから9世紀、今から1100年ほど前のことになる」と話し出した。吾輩は、小春日和の気持ちの良い陽射しを浴びながら、馬の耳に念仏、いやイヌの耳に講義として拝聴した。以前は方丈記とか徒然草とかを引っ張り出して吾輩に講義し、それが何度も繰り返されるので辟易したことがあったが、最近は途絶えていたものが復活したらしい。続けて、
「これは歌物語だ。全部で125段あるが、そのほとんどが女に思いを寄せる和歌が中心として構成されている。たとえばその第3段目は『むかし、男ありけり。懸想しける女のもとにひじき藻というものをやるとて、思ひあらば葎の宿に寝もしなむ ひしきものには袖をしつつも』と和歌で締められている。つまりだ、貴人である男は思いをかけた貧しい女のもとで自分の着てきたものを敷いてでも共寝したいものだと、その思いをストレートに伝えている。恋の歌というよりは欲望の歌と言ってもよいな。この伊勢物語のほとんどは、こんな風に男が見初めた女に懸想し、その思いを和歌に託すという筋書きとなっている」
 吾輩は、「この伊勢物語というのは好色な男の女遍歴の物語ですか」と問うと、
「まあ、そんなところだな。ただし、その思いを和歌に著しているので、歌の本でもある。男が女に次々と懸想するのは節操がないように思えるが、これは源氏物語でも同じだな。ここには、男女の機微、思いやり、しっと、恨みなど人生が綴られているのでただの艶話ではない。伊勢物語は源氏物語に大きな影響を与えたと言われている」と講義調で解説を続けた。
 吾輩には、恋だの愛だのという感情は持ち合わせていない。でも懸想ならばなんとなく分かる。というのも、散歩の途中で出くわしたかわい子ちゃんのことはなかなか忘れられないし、いつもその面影が頭に浮かんできて吹っ切れない。まさにその子に思いを懸けるという表現がぴったりくる。きっとこの伊勢物語の昔男も同じ思いなのだろう。といっても、もう昔のことになってしまった。歳をとった最近は、かわい子ちゃんに対する思いが淡泊になり、すぐ消えてします。まあ、男あるじがよくいうところの「枯れた」ということなのだろう。
 男あるじは、
「この伊勢物語の最後の段は『むかし、男、わづらひて、心地死ぬべくおぼえければ、つひに行く道とはかねて聞くきしかど昨日今日とは思わざりしを』とショッキングな歌で結んでいる。天命を知る境地に至ったのだな」と男あるじは天を仰いだ。

「秋深く行く手定めず歩みけり」 敬鬼

- つひにゆく道とは-

徒然随想