この辺もようやく春めき、わが輩の昼寝する庭から見える公園の桜も満開となった。なんでも、今年は春が来るのが遅くて10日前後も遅れて咲き出したそうだ。道理で、うたた寝にはもっとも適したぬくとさになるはずなのに、身を縮め、しっぽを股ぐらに挟みんで丸くなっていないと肌寒くてならなかったわけだ。でも、ようやく春が来た、と喜んでいたら、歓迎しない御仁も現れた。そして、「そうか、南九州旅行の話の続きを聞きたいのか。感心なやつだ。熊本の後は、鹿児島に九州自動車道をレンタルカーで入ったわけだ。時間にすると、まあ、2時間30分といった所か。距離にすると170kmくらいだな。この間は高い山が多く、峠を通るときは長いトンネルが続いた。名古屋から信州へ出る中央自動道のように、鹿児島に入るまではカーブの多い道だったな。江戸時代には鹿児島に入るのも出るのも難儀したことだろうな。あの家康でさえ、天下分け目の関ヶ原の戦で豊臣方に味方した島津義弘を薩摩まで攻めて成敗することは断念したそうだぞ。そのくらい、薩摩は高い山と海に囲まれた攻めにくい地形をもっている。宮崎に出るのも、霧島が間にあるので、容易ではないな」と話し出した。
  わが輩は、鹿児島なんてところに興味はないが、子守歌がわりに聞くにはちょうど良いので、生返事をしながらうとうととし始めた。男あるじは、
「鹿児島と言えば、桜島、城山、西郷隆盛だろうな。いやまてよ、いまは篤姫が有名かな。いずれにしてもこの地が日本の歴史にはなばなしく登場したのは戦国時代以降では幕末だ。大久保利通、小松帯刀、黒田清隆、五代友厚、大山巌、西郷従道など、維新後の日本を担った人物が輩出した。ただ、征韓論に与し西南戦争を主導した村田新八、桐野利明など有能な志士たちは維新後の発展をみることなく戦死してしまった」と話す。
 わが輩は、命がけで幕藩体制を倒したのに、自分たちが創始した明治政府にどうして反抗したのかなと疑問が吹き出た。わが輩の顔色を読んだ男あるじは、
「明治政府の要職から下野せざるを得なかった西郷とその支持者の不満、そして自分たちが重用されないという士族の不平が原因だったようだ。それと明治政府のとった対応が西郷支持者たちを激高させたらしい。この当時、選挙で国論を決する政治制度はまだ整備されていなかったので、自分たちの政治的意図を押し通すには腕力つまり武力に訴えるしかなかったのだ」と説明した。
 「この最後の内戦は薩摩軍の全面的敗北で終結した。西郷は薩摩藩の本城であった鶴丸城の背後の城山の洞窟で鉄砲玉にあたって負傷し、自刃した。鶴丸城は築城当初から城垣のみがあり、はじめから天守閣が築かれなかった。これは、城を守るのは建物ではなく人であると考え、殿様の居住御殿や政庁である御殿しか城内には作らなかったためであるという。鹿児島市は本州の西南端で東京からは遠いけれども、桜島のある錦江湾は太平洋とつながっていて、外の広大な世界へと誘う地勢を持つ風光明媚な地といってよいな」と、男あるじは鹿児島の土産話を話し終えた。
  わが輩は、歴史に登場した地を訪ねて、その来歴を知るというのも楽しいことだろうなと感じたが、犬の世界にはわれわれ仲間の生きた証を記したものがあまり存在しないので訪ねようがないな。でも、無いことはないか。忠犬ハチ公、南極大陸のタロ、ジロ、盲導犬クエール、警察犬きな子、そうそう、フランダースの犬、名犬ラッシー、などなど。そうか、歴史になお残した我々の仲間も少なくないな。さてと、わが輩はどのようにすれば、名を残せるのだろうか。

「行く春や 時には猛る 桜島」敬鬼

徒然随想

-鹿児島鶴丸城-