3月に入ると、冬の寒さとは異なり、それとなく春近しの暖かさを感じる。梅が咲きほころび、黄水仙も花壇のあちこちで黄色の花をつけている。わが輩も、散歩でしっこするときには、花にしっこがかからないように気を配っている。とにかく、春がめぐってくると、もはや熟年者の齢であるわが輩にも、壮年の頃の力が戻ってくるような気がするから不思議だ。きっと、身体が温まり、そのせいで筋肉がしなやかさを取り戻すのだろう。地中で冬ごもりをしていた虫たちも、そろそろ動き出すやもしれない。二十四節気でいう啓蟄も間近だ。これが過ぎると、春分だ。今年は20日そうだ。春の少し強くなってきた日差しを浴びながら、こんなことをうつらうつら思っていると、そこへ、女あるじが洗濯物を抱えてやってきた。まいどまいど洗濯をし、干して、たたむなんてご苦労さんなことだな。わが輩なんぞは、一張羅をまとい、しかも着た切り雀ならぬ着た切り犬なので、こんな煩わしさは無いので助かる。これで、シャンプーとやらをかけられる湯浴みがなければもっと良いのだがな。 女あるじは、そんなことにはおかまいなく、
「やっぱりお天道様の恵みは暖かさにあるわね。身も心もほかほかとしてきて気持ちがいいわ。洗濯物も、これまでは半乾きでなにか気持ちが悪かったが、今日はさっぱりと乾きそうだわ」とわが輩の方に目を向けた。これはやばい。わが輩もよく乾くとシャンプーをかけられたら大変だ。わが輩は、ことのほか、濡れるのが嫌いなのを知っているくせに。
 そこへ、男あるじも陽気につられてあらわれ、
「空気もなにやらうまい味がするな。これは、きっと芽吹き始めた草花の匂いを含んでいるからだな。春の語は、芽が張る、あるいは天候が晴るなどから来ているらしい。英語では、春はspringという。これは跳ねる、吹き出す、わき出すなどの意味があることから、いろいろな生き物がわき出す季節という意味が込められているな。日本語も英語も共通の語源をもっている」と語り出した。
 わが輩も、身も心も湧き出すのが春だということには同感だな。老いも顧みずに、とにかくわくわくし、跳ね回りたくなる。
「春を詠った俳句も、命の躍動を詠んだものが多い。蕪村の『菜の花や月は東に日は西に』の句は、西を見ると冬には見かけない色の黄色に夕日を浴びて畑は染まり、かえりみて東を見ると大きな満月も上がってきたことを詠い、春の息吹に満ちた雄大なシーン連想させるな。また、『春の海ひねもすのたりのたりかな』の句も蕪村にある。これも、寒風に荒れた波も静まり、一日中気持ちよい薫風が吹き抜けていることを詠み、冬場は寒さで緊張していた心身もゆっくりと弛緩していく心地良さをうたっている。こんな句もある。『梅一輪一輪ほどの暖かさ』。服部嵐雪の句だ。これはもう解説はいらないな。梅が一つずつ咲くごとに、暖かさが加えられていくと詠んでいる。まことに、うまい表現だ」と男あるじがうんちくを傾ける。
 わが輩も、懐かしい唱歌を思い出した。
「春よ来い 早く来い あるきはじめた みいちゃんが 赤い鼻緒の じょじょはいて おんもへ出たいと 待っている 春よ来い 早く来い おうちのまえの 桃の木の つぼみもみんな ふくらんで はよ咲きたいと 待っている」
 老いても、なお、春は待ち遠しいものだ。わが輩も、素直に伸びた手足を元気よく振って通学する子供たちをまぶしく眺めながら、おもいっきり背伸びをした。

「水仙や 輝き光る 肌まぶし」 敬鬼

徒然随想

-梅一輪一輪ほどの-