梅が咲いているらしい。わが輩の嗅覚をその匂いが刺激する。散歩中、桜は匂わないのでわが輩の注意を引かないが、梅は香しい匂いがそこここに漂っている。最近は、休耕地に梅を植えておくらしい。多分、あまり虫がつかないし、なんといっても実をつける。数十本の梅の木から収穫される梅の実は相当な量になり、梅干し、梅酒、梅ジャムができる。  男あるじも、漂うってくる梅の匂いをかぎ、あたりをきょろきょろと見回し、梅畑が角の向こうにあるのを見つけたようだ。そして、
「梅の匂いについては、こんな有名な和歌がある。『東風吹かば にほひおこせよ 梅の花主なしとて春な忘れそ』。これは、学問の神様、天神さんとして祀られている菅原道真が配流先の太宰府から京の都を偲んで詠じた歌といわれている。道真は右大臣として政治改革を断行していたが、反対勢力から讒言されて太宰府に左遷され、無念のうちに亡くなったといわれているぞ」と話し出した。
  わが輩には、道真が梅とこのような関係があるなんて知らなかったので、京の都を思い出すのに桜ではなくどうして梅なんでしょうと、上目遣いに問うと、
「何で梅かってか。それはだな、奈良時代頃までは、花といえば梅だったことによるのだろうな。いまでは桜が日本を代表する花となっているが、これは平安時代の末頃からだそうだ。北面の武士だった西行法師も『願はくば 花の下にて 春死なん その如月の 望月のころ』と詠み、その望みとおりに入寂したという。ここで詠んだ花はもちろん、桜なのだ。この頃には、梅よりは桜に自己を同一させるようになっていったと思われる。世俗を棄て、仏への修行の道に入った西行が、桜をおのれと一体化したのはどうしてなのかはわからないな。もっとも、この頃の桜は、ソメイヨシノではなく、ヤマザクラだと考えられる。ソメイヨシノは江戸時代末にエドヒガンとオオシマザクラを交配したものだから、平安時代には存在していなかった。西行が見た桜はヤマザクラだろう。高野山がある吉野山には、3万本の桜があり、その多くはシロヤマザクラだそうだ」と男あるじは問わず語りに語った。
  わが輩には、梅だろうと、桜だろうと、どっちでも良い話だ。それにしても、日本人はどうしてこんなに桜が好きなのだろうか。わが輩の目には、梅、桃、杏、リンゴなど春を告げる花としては遜色ないように思えるのだがと問うと、男あるじは、
「江戸時代の国学者、本居宣長は「敷島の大和心を人問はば朝日に匂ふ山桜花」と詠んでりる。これは桜が日本人の心性を象徴するものだとみなしたものだ。いってみれば、桜がいっぺんに咲き、いっぺんに散ることを例にして、あることにいっぺんは集中し、そしてそのことに執着せず、潔よく散るような人生の生き方が理想だと宣長は説いている。太平洋戦争中は、このような生き方が礼賛されて多くの若者が戦場で散華した。当時の若者の心境としては、桜に自己を同一化させることでおのれの生き方をあえて肯定したのだと思うよ」と結んだ。
  わが輩は、戦争もなく、また大災害にも遭わない幸運に感謝しなければ、と心を新たにした。桜は多くの歴史や逸話をもった花なのだな。たかが桜花、されど桜花だ。

「老いの朝 一期一会か 桜花」 敬鬼

徒然随想

-梅か桜か-