今週の土曜日は、わが輩が暮らす学区の小学校で運動会が催された。朝から元気を鼓吹するミュージックが拡声器から立て続けに流されている。いつものわが輩ならば、うるさくて朝寝もできやしないとぶーたれるところであるが、毎朝の散歩で出会う子どもたちが参加していることを思うと、無碍なことはできない。男あるじでも出てきて運動会に連れて行ってくれないかと期待していると、景気の良いミュージックに誘われたとみえて男あるじも庭に出てきた。わが輩は、さっそく眼で運動会を見に行きませんかと、それは下手に出て頼んだところ、男あるじもその気でわが輩を連れに来たものとみえ、一緒にいそいそと学校へと向かった。  案の定、学校の校庭は大賑わいであった。最近は、父母ばかりではなく、祖父母も運動会を見に来るのだそうだ。しかも、秋の彼岸が過ぎたとはいえ日中は暑いので、家ごとに校庭にミニテントを張ることが認められていて、運動会に使用する場所を除いてその周囲には所狭しと多くのテントが張られていたのにはびっくりした。男あるじも、久々の運動会見物とあって、その光景には唖然としていた。男あるじの子どもたちが小学生だったのは、もう30年も前のことになるから、当時と比べても隔世の感があるのだろう。もっとも、当時、男あるじはほとんど運動会にも、父親参観日にも顔を出さなかったらしい。きっと、父親ですと名乗って参観することが恥ずかしかったのだろう。意外と照れ屋でもある。
  男あるじは、自分が子どもだった頃の運動会の記憶もたぐりながら、
「校庭の中央には運動や演技のための広場が作られ、そのまわりにクラスごとにイスを並べてあるのは、昔と変わらないな。もっとも、全学年を赤組と白組に分け、点数を競うというやり方は新しいものだ。私の頃には学年のなかでのクラス対抗はあったが、全学年を二分しての対抗はなかった。運動会の出し物も昔とあまり変わってはいないようだ。組体操、騎馬戦、玉入れ、大玉転がし、それと徒競走。それから、マスゲームがあったな。いまもこれらは運動会の定番のようだ。そうそう、私の子どもの時代には綱引きがあったが、最近は無いようだ。私の子どもの頃ともっとも違うのは、応援合戦だな。これは全学年が参加し紅白に分かれて、その応援の力強さを競うもののようだ。低学年も高学年も皆声を合わせて真剣だ。そうだ、思い出したぞ。私の頃には父兄が参加する演目もあった。あの頃、戦後もまもなくの頃だから昭和2526年、父兄というくらいだから父親の参観が多かった。私のおやじが綱引きをしている写真が残っていた。暮らし向きの厳しさや日頃の商売のことも忘れていっときはしゃいでいた。あれから、もう60有余年にもなる」とつぶやきながら、ひきりにカメラのシャッターを押した。
  わが輩は、校庭の一番端っこで邪魔にならないようにお座りをさせられて見物した。といっても、子どもたちが演技したり走ったり飛び跳ねたりしているところは、まったく見えなかった。というのも、父母、祖父母、近所の野次馬らが取り巻いていたからだ。やれやれ、毎朝の散歩で出くわす子どもの勇姿がみられるかと期待してきたのに残念無念。 男あるじは、人垣の周囲をまわりながら、誰かを探すでもなく、また運動会を集中してみるでもなく歩き回った。わが輩は、それを眼で追いながら、過去と現在の運動会の間を彷徨しているのだなと感じた。

「運動会 昔と同じ 秋晴れぞ」 敬鬼

徒然随想

-運動会ノスタルジア