このところ、この家の者たちはプロ野球の日本シリーズに夢中なようだ。新聞の下馬評によれば、ホークスが圧倒的に有利とのことだったが、ふたを開けてみるとドラゴンズの2連勝となった。わが輩には、どちらが勝利しようか関係ないことだが、人間どもはそうではないらしい。メンツをかけた戦いがそれぞれのファンの間で進行するから恐ろしい。たかが野球、されど野球といったところか。
「そうなんだ。投げたボールをバットで打つだけのことだが、実は奥が深いゲームなんだぞ」と男あるじが語り出した。
「人間の運動能力は、走る、投げる、打つ(当てる)、蹴るが基本となるので、多くのスポーツはこの基本的的運動能力から構成される。たとえば、テニスはボールを打つ、走る能力から、サッカーは蹴る、走る能力から、そして野球は投げる、打つ、走る能力が必要となる。子どもの遊びをみていると、まず走る、次には蹴る、何かを投げる、そして手や道具を使って打つことから成り立っているだろう。お前たちイヌの仲間は、手が無いので、走るのが基本となる、いや走ることしかできないわけだ」と続けた。
 なにおかいわんや。わが輩たちイヌには立派な機能を備えた口がある。これで、ものを咥えたり、運んだり、場合によっては転がしたりできる。もちろん、走ることは人間どもには負けない。でも、人間のような手が無いので、ボールを投げたり、道具を使うことはできないのも確かなことだな。
「野球は、もともと、アメリカで誕生した球技だ。日本には明治の初期に、外国人教師によって伝えられたというぞ。あの正岡子規も野球が大好きで、第1高等学校時代はキャチャーをしていたし、野球用語を日本語に翻訳してもいる。たとえば、「バッター」「ランナー」「フォアボール」「ストレート」「フライボール」を「打者」「走者」「四球」「直球」「飛球」と訳した」と男あるじは解説した。
 わが輩は、俳句と野球とが関係しているのか、一瞬、奇異に感じたが、そうではなく子規が野球好きだったことから起きたことだという。
「子規は野球についても句をものにしている。『まり投げて見たき広場や春の草』は子規の句で、野球をするのに格好の広場を眼にした子規が、ここでキャッチボールをしたら楽しいだろうな。思い切りボールをかっ飛ばしたらさらに爽快だろうなという子どもに戻ったときのような気持ちが適確に表されているだろう」と話した。そして続けて、
「われわれが小さい頃の遊びのトップは、やっぱり、野球だったな。はじめは、ゴムまりを投げて打ち、ベースに走るというものだった。ベースも4箇所は場所をとるので、3箇所にした。しかも、ベースの代わりに、適当な間隔にある樹木や柱を利用したものだった。3角ベース野球とよんでいた。投げられたゴムまりを手で打つのだから、そんなに広い場所はいらないし、人数も投げる人、打つ人、守る人がいれば、足りる。学校から帰ると、近所の仲間を誘い合わせて、チョットした広場に集まり、暗くなるまで3角ベースに興じたものだったな」と遠くを見つめた。
 わが輩がみるところ、最近の子どもたちは野球よりサッカーが好きなようだ。散歩のかたわら、子どもたちは、キャッチボールよりボールを蹴って遊んでいることの方が多い。どちらも投げるとか蹴るとかいう基本的運動能力を使う遊びなので、子どもたちには楽しいことなのだろう。何を好むかは、時代と共に変わっていくようだ。もっとも、わが輩たちイヌの遊びは、昔から散歩がてらの匂いハンティングにあることは変わらない。

 「秋日和 投げ打ち走りしは いつのことか」 敬鬼

徒然随想

     −野球ノスタルジア