盛夏の前の異常気象だからかな、嵐が次々と通り過ぎていく。わが輩は、雨と雷が大嫌いだ。なにせ、恐ろしげな音を立てて正体不明のものが鼓膜を襲う。どうしてなんだろうか。自然と身震いがするので、フィーンフィーンと泣いて家の中に入りたいことを知らせる。でも、こういうときに限って、家人にはわが輩の声が聞こえないようだ。しかたなく、吠えるとようやく、玄関に入れる。やれやれといったところか。
 一難去ってまた一難。この家の男あるじが暇をもてあましたのか、自分の部屋から出てきてわが輩をからかう。つとめて眼を合わせないようにするが、相手も無視されたとなると人間の沽券に関わるとでも感じるのか、息を吹きかけたり、四股を踏むマネをしたりでわが輩の気をひこうとする。仕方がないのでしっぽを振って応えてやると満足げにぶつぶつとつぶやく。
「遊んでやると嬉しいらしいな。こんなにしっぽを振っているぞ」
 わが輩の気持ちを取り違えたようだ。どうも、独断と偏見、自己中心的にしかものごとを見られないようだ。この男あるじには、そんな傾向がとくに強いらしい。これで学者を自認しているのだから、わが輩はあきれてしまう。
 「汝、自らを知れ」といったのは、かの有名な古代ギリシャの哲学者 ソクラテスだったな。なんでも、ギリシア、デルフォイのアポロン神殿の玄関の柱に刻まれていたことばといわれる。確か、男あるじがいつも自戒としている格言だそうだが、ちっとも身についていないようだ。そこで、
「汝、自らを知れ」とわが輩は、つぶやいてやったところ、立ち去りかけていた男あるじは聞きとがめて、
「うん、うん、うん、なにか言ったか。汝自身を知れてっか。ふーん、えらそうに、その意味するところがわかっているのか」と大声を出した。そして、
「まあ、生かじりの知識だから分かるまいな」と続けて、わが輩からみると身についていない知識を、またひけらかした。
「もっとも知恵ある者はソクラテスであるというデルフォイの神託の意味するところを突きとめようと、ソクラテスは政治家、詩人、職人など自分より知恵ある者を次々と訪ねて問答をしたんだな。ところが、その人たちは、ソクラテスよりも何も知らないか、あるいは職人のように何かかしら優れた点がある場合でも、知識があるという自惚れていることがわかってしまったんだな」
わが輩は、またも込み入った話になってきたなと、少々、辟易してきたが、がまんして聞いていた。
「そこで、ソクラテスは気がついたんだな」と思わせぶりに言う。
「つまりだ。ソクラテス自身も何も知らないが、何も知らないことを知っているということだったんだな」
「なるほど、そういうことか。それなら、わが輩は、とうの昔に、それに気がついていた。わが輩がなぜこの家にいるか、わが輩はなぜ人間ではなくて犬なのか、そしてわが輩はなぜハッピーちゃんが気にかかるのか、まったく分からないからだ」
わが輩が、こんなことを思案していることなどお構いなく、男あるじは
「政治家、詩人、職人たちは、ソクラテスから見ると、ほとんど何も知らないのに、すべてを知っていると思い込んでいたんだな。こうしてソクラテスは人間の見せかけの知恵をあばくという使命に身を捧げ、神を否定し世を惑わす者として裁判にかけられ、死刑を宣告され毒をあおいで自死するんだよ」と結ぶ。
「ふーん。知恵とは何かに命をかけた哲学者なのか。わが家のあるじとは大違いだな。なにせ、わが輩よりは確実に知恵を持つとうそぶいているんだからな。わが輩から見れば、些末な知識はあるが大事なことは何も分かっていないようだから。やれやれ、ソクラテスの爪の垢でもあればな」とつぶやこうとしたら、あたふたと携帯電話にせかされてこの場を離れていった。そういえば、こんなことを卒業式の訓辞で述べた人が、かっていたそうだ。

「太った豚より痩せたソクラテスになれ(大河内一男東大総長)」


徒然随想

-痩せたソクラテス-