朝晩の冷え込みも弱くなり、だんだんと春が間近になってきたことを感じるが、それでも雨が降る日は冷え込みがきつい。旧暦では立春後のこの時期を雨水というらしいが、それにしても1日おきに雨となるので閉口だ。そんな雨の日は、吾輩は家のなかの毛布を敷いたひと間で丸くなり、ほぼ寝て一日を過ごす。吾ながらよく寝れるものだと感心してしまう。きっと、外も暗く、家の中もしっそりとしているせいだろう。こんな日は男あるじも自分の部屋に引きこもっているので、吾輩にちょっかいを出しにはやってこない。女あるじは買い物に出かけ、その後は炬燵で新聞を読んだり雑誌を見たりしている。
 朝から降り続いていた雨も夕方には止んだので、男あるじと女あるじがお出ましになり、吾輩を散歩に連れ出した。最近では二人揃って吾輩を真ん中にして散歩をするのが日課になっている。ご近所の方からは毎日決まって夕方に揃って散歩に出かけるので、仲の良い夫婦とみられているらしい。しかし実は、女あるじに言わせると、吾輩の散歩にかこつけたメタボ対策で、吾輩の散歩を出しにしての健康維持のウオーキングがほんとのところらしい。もっとも吾輩を中にして二人で歩いていく姿は端からはきっと微笑ましく見えるのだろうか。
 「そういえば、一雨毎に木蓮や桜の花芽も膨らんできたな。すでに紅梅や白梅は咲き出している。これらの木々は季節を忘れずに春の装いの準備をするのは、まか不思議といっていいだろう」と男あるじは歩きながら話し出した。女あるじも、
「弥生三月ですからね。月末には桜も満開になりますよ。この間、お正月で孫たちが遊びに来ていたのに、もう二ヶ月も過ぎたんですね。毎日が定規で引いたように同じことの繰り返しだから、時の過ぎゆくのが早く感じるのでしょうかね」と応じた。
 老夫婦の会話というのはいつも同じで、こんなふうに季節の過ぎゆくのが早いことを嘆くふうでもなく感傷的に口にするのを、吾輩は、またかと聞きながら歩いた。
「陰暦で三月を弥生と言うだろう。これはどういう意味か知っているか」と男あるじは吾輩と女あるじをみやった。 吾輩は、そういえば、陰暦は数字で月日を表すのではなく、季節季節の特徴を言葉にしているなと思い至った。睦月、如月、弥生、卯月・・・・・。男あるじは、
「陰暦の月々の名前は、その月の季節感を代表する言い表しになっている。睦月は正月で皆が睦み合うからだし、如月は寒さを増すので衣を重ね着するからだし、弥生は植物が弥さかに勢いを増すからだということだ」と解説した。これを聞いていた女あるじは、
「そうよ、春が来たことを感じさせるのは、なんといっても桃の節句だわ。この頃になると、日脚も長くなり、子どもも外遊びをするようになるので、春が巡ってきたことを子供心にも実感したことを思い出すわ」とつぶやいた。
 吾輩は男あるじと女あるじの会話を聞きながら、大地も草が新芽を出し、得も言われぬ新鮮な匂いを発しているのに気がついた。吾輩は、他のイヌのしっこの臭いを探索するのを常とするが、草が茂り始めるときの匂いもかぎ分けることができるのだ。とくに、雨上がりの土には、土と草の匂いがよく立ち上がっている。
 男あるじは、
「おまえのいうとおりだな。土と草からは早春の匂いが立ち上ってくるな。寒いと土も身を縮めてしまうので匂いが漏れてこないが、暖かくなると土も身を開き草が伸びやすくしてやるのだな」と鼻を土に寄せて、話を締めくくった。

「土緩み春の息吹を醸し出し」 敬鬼

- 弥生三月

徒然随想