11月に入ると、晴れた夜などは月が煌々と輝き美しいが、わが輩には夜風が身にしむ。もはや虫の音も絶え、わが輩を悩ました蚊も消え去って静寂が夜を支配している。この季節になると、縁の下の庵を出て建物の中で過ごすことが多い。これも、この家の女あるじの配慮らしい。いくらイヌでも、夜風は身体に悪いと考えてのことのように思えるが、男あるじによれば、風邪を引き獣医さんにお世話になると、たいそうな物いりになるのを避けるためらしい。わが輩には、功利的な理由であれ、わが輩の身を思ってのことであれ、冷たい夜風を避けるために丸まって寝なくても良ければ理由は問わない。
  この夜も、こんなことを考えながら寝に付こうとしていたら、男あるじがやってきた。そして、例の徒然草の一節一九一段を朗読し始めた。まあ、子守歌だとおもって聞くことにしよう。
「『夜に入りて、物のはえなしという人、いと口をし。万のもののきら、かざり、色ふしも、夜のみこそめでたけれ。昼は、ことそぎおよずけたる姿にてもありなむ。夜は、きららかに、花やかなる装束いとよし。人のけしきも、夜のほかげぞ、よきはよく、物いひたる声も、くらくて聞きたる、用意ある。心にくし。にほひも、ものの音も、ただ夜ぞひときはめでたき』。これは昼とは異なる夜の世界での感じ方を述べている。つまりだ、昼の光は、人も花もすべて余すところなく見えてしまうが、夜は、燈火が照らしているところしか見えないので、その部分のみが鮮やかに強調され浮き出るので、たとえきんきらきんの衣裳でも優雅に見える。夜はものの姿を変えるほどその印象を強める、というのだな」と解説しだした。
  わが輩は、眼よりも匂いで物を知るために、夜になると匂いが一段と強まると言うことは感じない。匂いは方向性のあるものなので、光が強かろうが弱かろうが、その印象は変わらないものだ。でも、人間は視覚が優位な特性を持つので、夜、どこにいるのかわからないがそこはかとない女性の匂いには昼とは異なる情感をくすぐられるのであろう。男あるじは、わが輩のこんなつぶやきを聞いて、
「そのとおりだな。人間は外界情報の八割方、眼から仕入れている。もちろん耳で聞く音情報、音声情報も重要な情報源だ。しかし、やはり人間にとっては眼からの情報が格段に重要な情報源だ。もののあわれ、ものの風趣、もののおかしみなどは、そのものの置かれた状況が大切だ。能楽では、よく神社や寺院で薪能が催される。これは、薪に火を付け、その明かりのもとで能が演じられるので、そのように呼ばれている。これは、薪の燈火で照らされたところは明るく強調され、その周囲は暗く背後に沈むので、陰と陽が強調されてその視覚効果は高い。まさに陰翳を強めることで主人公の表に現れない深層が闇のなかに出現するわけだな。能は狂言と異なり、シリアスな筋立てになっているものが多い。たとえば主人公は、多くの場合、非業の死をとげ、往生できない霊が仇に復讐を遂げようと、もだえ苦しむが、最後には悟りを得て往生を遂げる。『敦盛』などはその典型で、霊となった敦盛とその仇である武将熊谷直実との間で生死を分ける深刻な語りが進行する。これを薪の燈火のみで演じると、霊と現身が暗闇の中に浮かび上がり、この世とあの世とが交差して、深い静寂と神秘的な感慨を体感し、まさに幽玄の世界が現出するのだ」としたり顔で話した。  わが輩には能のことはとんと解せないが、秋の夜は春や夏の夜とは違う思いを抱かせるのは確かに感じられる。春や夏の夜は、生きとし生きるものを浮き浮きさせる雰囲気がある。これに対して、秋の夜は、生きとし生きるものに自己の存在の根源を沈思黙考させるものがあるようだ。わが輩のように日々是好日をモットーに毎日をお気楽に過ごしているものでも、春の夜はあのかわいいメス犬に淡き思いを抱き、一緒に同衾したいとさえ妄想する。でも秋の夜は冷たい風の吹くなかで独りわが庵のにうずくまり、わが来し方、そしてわが行く末を思いやりながら夢路に向かいたいと思う。

「月冴える 夜のしじまの 沈思かな」 敬鬼

徒然随想

-夜ぞひときわめでたき