今年の夏は、わが輩の縁の下の庵から見える公園から聞こえてくるアブラゼミの鳴き声が少ないようだ。ときどき、ジージージーと思い出したように鳴くだけで、後はシーンと静まりかえっている。いつもは、猛暑に油を注ぐようにうるさく鳴いているセミなのに、鳴かないとその静かさが異常に感じられるから妙なものだ。そこへ、男あるじが真っ昼間だというのに、庭に出てきた。そして、
「いやに公園が静かだな。そうか、セミが鳴いていないのか。暑く、よどんだような空気で、まわりもシーンと静かだと気味が悪いな。暑さが肌に余計にへばりつくようだ。ジーウォン ジーウォン ジーウォンと鳴く音で、このへばりつくような空気も吹っ飛ばしてくれるとよいのにな」とつぶやいた。
  わが輩も、ジージージーウォンの蝉しぐれはうるさいものと感じていたが、暑気払いにも蝉の鳴き声は役立っているのだと男あるじに、鼻を鳴らしてそれとなく共感の意を示した。男あるじは、
「そういえばだな、芭蕉の句にこんなのがあったぞ。『やがて死ぬけしきは見えずせみの声』。なかなかの句だな。セミは7年土中で過ごし、地上に出てくると7日前後で死ぬ。まあ、はかない命の象徴みたいな生き物だ。セミ自身には、このようなはかない運命はわからないので、精一杯に命を謳歌するように鳴く。鳴く蝉はオスで、メスを引きつけるためだぞ。わずか7日の間に、交尾できれば子孫を残せるが、そうでなければ自分の分身は失われてしまう」と続けた。
  地中から地上に出てきたセミは楽園とばかりに遊んでいられなく、それは必死にメスの気を引きつけなければならないのか、とわが輩はセミに同情した。わが輩も当てがい扶持の身の上で、子を持つなどもってのほかのようだ。わが輩の先代も当てがい扶持だったが、たまたま迷い込んできたメス犬と交尾はできたらしい。わが輩も、そんな幸運を待ち望んでいるのだが、最近は、夜でも放し飼いにされる犬がいなく、そんな幸運は訪れないと諦観している。
「そういえば、『八日目の蝉』という小説があったな。角田光代の作で、映画やテレビドラマにもなった。あらすじは、愛人から捨てられ、堕胎の失敗で子どもを生めなくなった女が愛人の妻が生んだ乳飲み子を誘拐し、逃亡生活を続けながら育てるというものだった。しかし、4年後に捕まり子どもを元の家に帰さざるを得なくなる。誘拐された子どもは成人し大学生となるが、本当の母親とは正常な関係が結べなく、誘拐後の自分の生い立ちを探す旅に出る。そして、誘拐犯である女がどのくらい自分を愛して育てたかを知ることになる。自分も不倫相手の子を身ごもっているが、この子を生んで育てる決意をする。まあ、ざっとこんなあらすじだ」と男あるじは話を変えた。
  わが輩は、このあらすじからは、どうして八日目の蝉というタイトルがついたのかわからなかったので、眼できくと、「それはだな、多分、こういうことだ。セミは七日目に死んでしまう。つまり八日目の世界を知ることはできない。八日目まで生きた蝉は、本来見ることのできない世界を体験したことになる。つまり、誘拐されたこの主人公は、普通に育てられたならば知ることのない奇異な世界を知ったという寓意が込められているようだな」と答えた。
  それは確かに奇異な体験だったが、しかし貴重な体験で、普通の人が気がつかない深い愛情というものを知ることになったのだろうなとわが輩は納得した。わが輩は、天涯孤独の生涯を強いられている。わが輩は、ペット交換所からもらわれてきたので、氏も素性も、母親も、育ちもわからない。この家の男、女、娘あるじも知らないようだ。八日目の蝉の境遇と同じかも知れない。だからといって、わが輩の場合、それが貴重な体験とはなっていないようだ。というのも、どのイヌも見ることのない世界をいまだ見ていないからだ。はて、さて、八日目を迎えられるのだろうか。

「あぶらぜみ 八日目に見る 果ての世を」 敬鬼

徒然随想

-八日目の蝉