「ゆく川のながれは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖と、またかくのごとし」と男あるじは暗唱でもしているのか、何回もぶつぶつとつぶやきながら、わが輩の所にやってきた。今朝は、実に神妙だ。どうしたのか、といぶかると、
「あしたに紅顔あれども夕べには白骨と化す」と小声でしゃべりはじめた。よくよく尋ねてみると、元気で活躍していた男あるじの親友が不慮の死したとのことだ。男あるじには大変な衝撃であったようだ。
「たしかに永遠の生は望めないし、また望まないが、しかし突然の死はなかなかに受容できないものだ。方丈記の鴨長明も、この世のことは、川の流れがとどまらないのと同じように、絶えず変化しているとを言うが、しかし人間は大きな変化を受けいえられるようにはできていない。とくに、身近な人の急な死は、その人が元気であればあるほど受容できないものだ。頭では、生きとし生けるものは突然、生を断たれることがあることを理解しているが、それが家族、親友、ましてや自分自身に起きるとは露ほども感じていない。おまえだって生きるものだから、突然に生を断たれてしまうことがあるのだぞ」と、急にわが輩に向けて話題を振った。
  わが輩も、同年配の仲間が年をとり、足が弱り、おしっこを垂れ流し、衰えていくのを散歩の途中で見ているので、いつまでも元気でいるとは思っていないが、だからといって夕方、白骨となってしまうとも思わない。くわばらくわばらだ。わが輩は、まだまだ、この世に未練がある。かわいいメグちゃんとランデブーしたいし、香しい匂いも嗅ぎまくりたい。おいしいジャーキーも腹一杯食いたいし、おもいきり野原を駆け回りたい。これを察した男あるじは、
「人は、無情にも、あっというまに白骨と化してしまう。いや、白骨だけが残る。浄土真宗の蓮如は、ゆえに、『誰の人も早く後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏を深く頼み参らせて、念仏申すべきものなり』と結んでいる。つまり、人の一生は儚いものなので、生きているうちに仏に帰依し、いつ死んでも良いように心を整えておく必要があるというわけだ。確かに、親友の急逝に接すると、その思いを深くするが、そうはいっても困ったときの神頼みのようには、仏をとってつけたように信心することもできないというのが素直なところだ」と語った。
  わが輩には、信心というものは理解しがたいもののひとつだ。いわば、自分でどうにもならないことなので、スーパーマンであり、永遠の命をもつ絶対者に頼ろうということなのだろうか。われわれイヌの仲間でも、強くて賢いものが群れのリーダーになり、仲間を導く。でもこれは、仲間がよりよく生き抜くための社会的体制とでもいうべきもので、絶対者ではない。リーダー制度は、仲間にとってロスよりメリットがあるから従っているのだ。でも、人間が信仰する対象は、絶対者なので無条件に依存することが求められるという。たしかに、われわれイヌも、そして人間も、いや生きとし生けるものすべてがいづかたより来たりていすかたに去るのか、知らない。もし、死んで後にどこへ行くのかがわかれば、こんな安心なことはないだろう。わが輩イヌだって、白骨をこの世に残しても魂がどこそこへと行くのだとわかれば安心この上ない。そこが、また仮の宿りでかまわないし、永住するところであればなおのこと安心だ。だれか納得のいくように教えてくれないものかな。

「天の川 流れにゆだね 旅にでる」 敬鬼

徒然随想

-ゆく川の-