今年は台風の当たり年だ。次から次へと直撃はしないものの、その余波がやってくる。暑さが一時しのげるが、大雨だったり、大湿気だったりで気持ちが悪い。吾輩も足腰が極端に衰えたので散歩もままならないので、最近では家の中の8畳間を与えられてうつらうつらと過ごすことが多くなった。これはこれで良いのだが、やはり外の空気を吸わないとストレスがたまるのか、やたらと徘徊したくなる。この徘徊は男あるじには気に障るとみえて、すぐに吾輩を追い出そうとする。すると女あるじがこんな暑い日に外へ出すのは虐待だと吾輩をたすけに来る。でも、吾輩としては外の空気を吸いたいのでこの助けはいくぶん迷惑だ。男あるじは、吾輩を外に出すことは諦めて、
「今頃の季節を二十四節気では処暑という。八月の二十日過ぎの頃のことだな。その意味は暑さが和らぐということだな。これはちょうど立秋から数えて15日目頃となる。そういえば、萩の花もちらほらと咲き出しているし、赤とんぼも舞っている。アブラゼミからツクツクホウシに代わった。ジージージからツクツクホウシツクツクホウシ。季節は移ろっている。」とつぶやいた。 吾輩は散歩も家の前の公園を二三回ぶらぶらと回るだけなので季節の移ろいに気がつかなかったが、公園の草むらのショウリョウバッタも大きくなってきたなと気づいた。そういえば、あのうるさく鳴くクマゼミはいつのまにか鳴かなくなっているようだ。
 女あるじも、「今年の夏ももう終りだね。ちょっと寂しい気もするわ。あの暑さも嫌だけれども、でも夏は精気をみなぎらすわね。胡瓜もトマトもそして茄子もぐんぐんと実をつけるのを見ると、夏は生きとし生けるものを成長させるん季節だと感じるわ。それもお盆を過ぎると、野菜の成長は目にみえて遅くなるのよね。クウちゃんもこれからは涼しい季節に向かうので、もう一度元気をとりもどせるといいね」と吾輩に語りかけた。
 吾輩も、ご期待に応えるべく相務めようと思うのだが、これだけ足腰が弱くなると自信がないな。もっとも、食欲は旺盛だし、おしっこも良く出るので内臓はまともに働いているらしい。秋から冬にかけて元気をとりもどすべく頑張ってみるか。
 男あるじは、吾輩のこんな気配を察して、
「まあ無理するな。自然にまかせるのが一番良いのだぞ」と吾輩には気になることをほざいたので、思い切り吠えてやった。これでは吾輩が長生きすべく頑張るのは自然の摂理に反するとばかりの言いぐさではないか。男あるじは、すこし言い過ぎたとばかり、
「これでもお前の健康を気遣っているのだ。無理な延命治療はおまえを苦しめるだけだから」とのたもうた。吾輩は男あるじの心底をみた思いで、一声吠えてやった。女あるじも、「クウちゃん、クウちゃんはわが家の大事な一員だから、延命だろうが介護だろうがなんでもしてあげるから心配ないよ」となぐさめたので、やっと吾輩は安堵した。足腰が達者なら男あるじの脚でも囓ってやるところだ。話題をそらして、男あるじは、
「『生きのびてまた夏草の目にしみる』、これは徳田秋声の俳句だ。大病をしてようやく健康を回復した時の心境を詠んだものだ。おまえも今年の夏はなんとか越せば、こういった心境に到達するだろう。夏草の目にしみるという表現は、いまおれは生きのびて青々とした茂って生命にあふれた草を見ているという自分の命についての感慨をあらわしている。おまえを見て感心するのは、身体の衰えを素直に受け入れていることだな。きっと人間ならば満足に動けない自分にイライラし、自分にも周りにもストレスとなるところだ。その点、諦観というか、心を無にすると言うか、いつも眠りこけているのは立派な態度だ」と結んだ。なにおかいわんやだ。

「赤とんぼ涼を呼ぶか空に舞い」 敬鬼

- 行く夏

徒然随想