徒然随想

夕立と虹
  夏の風物詩と言えば、雷と夕立だろうな。酷暑の陽射しが陰り、あっという間に入道雲が広がって雷がなりだす。思うまもなく、土砂降りがやってくる。そして、ピカ、ゴロゴロゴーンだ。わが輩は、耳が鋭敏なせいか、このゴロゴロゴーンが苦手だ。まるで、鼓膜を直撃されているようで耐えられない。こんなときは、ウーワン、ウーワンワンと思い切り吠えて家の中に逃げ込むことにしている。でも、夕立があがったあとは、涼気を含んだ風が吹き、気持ちのいいものだ。
 こんなとき、男あるじも散歩がしたくなるとみえて2階から降りてくる。そして、
「雷が怖いのだろう。あんなものは、天空の雷ショーだと思って楽しめばよいのだ」などと脳天気なことをいう。天罰があたり雷に打たれないようにと目で悪態をついたところ、察しだけはいい男あるじは、「また、悪態をついたな。まあ、しかし許してやろう。あの西の空をみてごらん。見事な虹が架かっているのが見えるか」と言った。そこで、空に目を向けたが、わが輩には何も見えない。それはそうだ。わが輩の色覚は極めて弱い。まあ、全体の景色は青に緑がかった色にしか見えないのだ。男あるじは、すぐに気がつき、
「しっけいしっけい、ちょっと忘れていた。人間には色の世界があるが、これは動物界全体を見渡すと特殊だからな。色覚をもつのは哺乳動物でも霊長類に限られる。それにしても、見事な虹だな」と惚けたように口をあけて空を見上げている。
 わが輩は、色というものがどのようなものかはいっこうにわからない。なにせ、せいぜい青緑色一色の世界に生きているからだ。我が眼で体験できないものは、赤とは夕焼けの色、舌の色、血の色といわれても理解できない。人間どもが、紫外線がどんな色かは想像できないのと同じだ。
 虹を見ていた男あるじは、しみじみと、
「天空のショーは、自然の神秘を実感させるな。虹の物理学によれば、天空の丸い水滴が光を受けていろいろに屈折するので7色が表れる。では、どうして円く描かれるかわかるか」
 わが輩は、色もわからないが、どうして円く虹が架かるかはもっとわからない。すなおに、わからないと伝えると、男あるじは、「それは、『太陽』−『水滴の集まり』−『観察者の眼』を結ぶ角度が、ちょうど良いときに虹が見える。その角度は42度位だと言われている。そしてだな、太陽と観察者の眼で作る42度の角度を成す水滴をいろんな方向に描くと、これは円になるのだよ。これは、簡単な幾何学だ。そうだ、虹と言えば、ブロッケン現象というものもある。霧の中に自分が後光を背景に立っているように見える現象のことだ。そのしくみは、霧が比較的近くにあり、自分の背後から陽光が差している場合、影の側にある霧の粒によって光が散乱され、見る人の影の周りに虹に似たような光の輪があらわれるために起きる。これも虹と同じく大気光学現象だ。 高い山に登ったときなどによく起きる山岳大気現象のひとつであるな。日本では、古くからご来迎として知られていた。仏教では、現世で徳を積むと阿弥陀仏が迎えに来て、極楽に行けるという信仰があるが、それになぞらえたのだな。ブロッケンの怪物になぞらえるよりは、この方が有り難いな」
  なるほどな、人間はいろいろなことを考えてきたのだな。わが輩は、前世も来世も、それがあるのかないのかわからない。ただ、この時、この空間、そしておのれ自身のみを確信できるだけだ。あるのかないのかわからないものを、to be or not to beと悩むのはご免だな。それより、早く散歩に出かけないかな。

「虹を呼ぶ夕立ありて心輝る」 敬鬼