わが輩の気がかりは、時々、男あるじが徒然草の一節を持ち出し、いかにも抹香臭い説教をすることだ。男あるじにそのような気を起こさせるものが何か、わが輩としては気がかりなところではある。今日も、夕方散歩の前に徒然草を片手に庭に出てきて、わが輩を相手に第九三段を読み上げ始めた。「『牛を売る者あり。買ふ人、明日その価をやりて牛をとらむといふ。夜のまに牛死ぬ。買はむとする人に利あり。売らむとする人に損あり』と語る人あり」
  わが輩はこれを聞いて、牛を買いに来た人は幸運だったというべきで、一方、牛を売ろうとした人は儲け損なったというべきだろうと、至極当然に思った。男あるじは、わが輩の眼をみながら、それは浅はかな考えだ。徒然草にはこんなエピソードが続けて紹介されている。この牛が死んだという話を聞いた別人が述べたこととして、
「『牛のぬしは誠に損ありといへども、また大きなる利あり。その故は、生あるもの、死の近き事を知らざること、牛既にしかなり。人もまた同じ。はからざるにぬしは存ぜり。一日の命、万金より重し』。どうだな、ここでは牛の死についての別の見方があると言っている。経済的な損得を考えれば、牛の死は牛の飼い主には大損となる。一方、牛の死は生きとし生きるものの生がはかないものであることを教えている。死ぬのは飼い主だったかも知れないと考えれば、生きている飼い主は幸運だということになる」と解説した。  わが輩は、詭弁くさいなと感じた。というのも、この話は商売の話なので、牛が取引の前に死んでしまったならば、牛の飼い主には損であり、牛を買いに来た人には利となるのは当然ではないだろうか。つまり経済の話を人の生き死にに関する哲学の話に豹変させているわけで、価値のすり替えといってよい。これを察した男あるじは、「それも一理ある。徒然草のなかで兼好法師は、日常生活のいたるところに死があることを牛の死に象徴させて強調したのだ。『されば、人死をにくまば、生を愛すべし。存命の喜、日々に楽しまざらむや。愚かなる人、この楽を忘れて、いたづがはしく外の楽しびを求め、この財を忘れて、あやふく、他の財を貪るには、志満ことなし』だそうだ」と語った。
  わが輩は、存命の喜は大事なことだとおもうが、でもこの存命の喜を感じるには、外の楽しみが要るのではないかな、と眼で男あるじに問うと、
「それも一理ある。ここでは生きていることに感謝し、死を忘れないでいることが肝要だといっているのだ。『人皆生を楽まざるは、死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず。死の近きことを忘るるなり』とも述べている。死を忘れないでいれば、存命の喜も充実する。もっとも、いつも死の近きを思っていることは人間にとってしんどいことだ」と結んだ。
  わが輩も、男あるじの最後の結びにはおおいに賛同した。誰しも永遠に生きられるとは思わないが、明日にも生が断たれるとも思わないのが普通だろう。わがイヌの仲間も、日々是好日を目指して生きている。今日という日は二度とやってこないのだから、今日一日を精一杯生きようという下心が働いているわけだ。わが輩にとっての存命の喜はここにある。

「夕まぐれ そそ吹く風に 彼岸花」 敬鬼

徒然随想

-存命の喜